
平成29年9月29日(金)、寒河江市技術交流プラザを会場に、第71回 「支援者のつどい」を開催しました。話題となった概要を広く皆様にお伝えします。
ご参加頂きました皆様、ありがとうございました。
なお、1部と2部に分けて掲載しています。
<参加者>
中間支援団体 3団体
母子支援団体 1団体
コミュニティ支援団体 1団体
山形市社会福祉協議会
寒河江市社会福祉協議会
鶴岡市社会福祉協議会
酒田市社会福祉協議会
天童市社会福祉協議会
山形県社会福祉協議会
山形市避難者交流支援センター
山形県復興・避難者支援室
参加者数:18名(13団体) スタッフ:4名 計22名
■第1部 支援活動に関する情報提供、質疑応答
「避難指示解除から間もなく半年~浪江町・南相馬市の今の暮らし~」
提供者:元避難者/南相馬市在住者
・震災後は南相馬市から二本松市に避難し、その後母の実家がある山形県内に3月15日に避難した。社会福祉協議会の相談員を3年していた。相談員時代は被災三県からの避難者にお便りを発行し、交流会を開催して参加者と助け合い支え合った。
・帰還のきっかけは父親から自分の支援をしてほしいと言われた事。最初は父親も一緒に避難したが、方言もわからず体調も壊し1年で南相馬市に先に戻った。自分も一番身近な人の力にならなければならないと思い3年で南相馬市に戻った。
・南相馬市では近所の人も避難したり亡くなっていたり、避難前と同じに状態に戻っていない事に気がついた。スーパーは19時には閉店し、コンビニも除染作業員の男性が多く、レジでもたもたしていると嫌がられコンビニにも行きたくなくなった。
・医療の過疎化も著しく、皮膚科は全部なくなり、小高区にあった皮膚科が原町にオープンしたが、子どもと高齢者の患者が多く、新規の患者はしばらく受け付けなかったため、隣の相馬市まで一日がかりで通院し不便を感じた。除染作業員の健康診断で総合病院は混んでいて、当時はどこの病院も患者でいっぱいだった。
・正しい情報を得る事を心掛け自分の中でラインを決めた。
・南相馬市民はガラスバッチが無料でもらえ、ホールボディカウンターも年に1回無料で受けられる。自宅にいる父親と外出の多い母親、職場にいる自分と数値の比較もできた。震災後の3年間は除染をせず、帰還後1年後の除染では屋根が最後になった為、数値は高かった。
・相馬市、南相馬市、浪江町は震災の状況や避難者の思いもばらばらで、この3つのエリアで仕事に通い住民と接触して、支援員時代に感じた事や思っていた事と答え合わせしていく事で共感し自分も成長できた。
・戻ってから就いた教育支援の職場は、山際にあり津波被害もなかったが、発達障害で津波被害に遭った子どもの支援をした。その子はみんなと違うという思いがあり、学校に馴染めなかった。311のイベントの時、「忘れたいのに忘れないで!ってどうして言うの?」と聞かれ「その気持ちはよくわかるよ。でもその気持ちを誰も分からないのは悔しくない?その気持ちをみんなに知ってもらうのは大事な事だよ。」と答えた。これをきっかけに元気になった。辛いことを乗り越えた瞬間だったのかもしれない。
・転勤後の小学校は防災や震災に力を入れている小学校である。支援をした子供は、本来は支援学校に行くレベルの子だったが、保護者の希望で通常の小学校の支援学級に入った。避難訓練の時に、「津波が来るの?」と聞かれ「訓練をすると津波がきても怖くないよ」と伝えたらその子は一生懸命訓練をした。
・2年間で相馬市に子どもがいる親の気持ちがよくわかった。ちょっとした言葉のやりとりで寄り添う支援は大事。相馬市は避難指示は出ていないが、南相馬市や浪江町の人と気持ちは同じで、乗り越えようと頑張っている。
・家族の事情で、半日の事務の仕事があった浪江町への現場事務所に勤務が決まった。
・北海道の業者や九州からもきていた。作業員に不安はないか聞いたら、「子どもはすでに大きいし自分にしかできないから」と言われてありがたかった。裏方で頑張っている人達に会えて心温まる気持ちだった。
・浪江町民で、復興団地に住んでいる高齢者が被災した自宅からタンスとこたつを運び出したいと言った。社会福祉協議会に相談して、ボランティアに来てもらい運び出してもらった。タンスやコタツを運び出して実際に必要のない物だと自分で納得すればあきらめて、新しい場所で生活ができるなら大事な事だ。
・家も土地も処分して小高区で自宅を購入した人は、近所の環境や違う土地での生活で大変な思いをしたと話を聞いた。自分の思い描いていたものと違い短所や長所もある。
・睡眠障害や鬱になって薬をもらっている人が多く、震災直後よりも5、6年後に新たなメンタルクリニックが開業している。
・戻るか戻らないかを決めてから、選択肢がなくなった事で悩んでいる人がいた。戻らないと選択し、そこで頑張れない人は一人では立ち直れないのでその場所での楽しみや生きがいがあればいい。決定後も大事である。
・浪江町民の知り合いは復興住宅に住むようになってから、太って嬉しいと言っていた。普段から自分ではきちんと食べていたつもりだったが、気持ちが緊張していたことに気が付いた。今はゆっくり食べて、外出もできるようになったようだ。
・男性も知り合いに会ってつながりができている。人とつながる事で元気になり引きこもる人が少なくなってきた。
・以前とは違う環境の中でも居心地のいい自分のペースができてきた。どうすれば楽に生活できるのかわかってきている。
・現在作業している浪江町では、持ち主がわからない家と土地がたくさんある。住民がいなくても許可を受けていない場所には、重機を入れてはならない。許可をとらないと勝手に重機を置くこともできない。
・南相馬市ではハザードマップや防災マニュアルも出している。放射線健康対策も記載されている。
・「事故由来廃棄物等処分業務特別教育規程」を受けた。除染作業員が受けていて内容が震災後、更に詳細になった。福島県では規定があり受けないと業務に携われないが、現場では自分が受講すれば、他の人に教育をして受講証明書を作る事ができる。専門的な知識を身に着け自分の状況を理解した上で家族や親せき友人などにも話をしている。
・浪江町の手作りアーティストが、インターネットで手作りアクセサリーを販売している。ブログやサイトを見ると元気になり周りも明るくなった。
・浪江町に咲いている花々は元気に咲いていて励まされる。
・原町区に浪江町の復興団地があり、震災前に浪江町にあったスーパーマーケットがある。そこに行けば友人に会える為、気持ちも前向きになる。
・放射線測定センターで放射線の線量マップがもらえ、最新情報を知ることができる。
・子どもの「津波ごっご」や「地震ごっご」はとてもいいと思う。不安を抱えているお母さんは多く、親も一緒に「ごっご遊び」をしながら遊び感覚で訓練できると思う。
・時間の経過と共に変えてはいけない部分と変えた方がいい部分を引き続き考えながら行動している。
・除染が終わったので、町の雰囲気は変わった。浪江町も解除になり住民の出入りも頻繁でコンビニの女性客も増えた。まだ一部除染作業は続いているが全体では終わっているので、夜のコンビニも行けるようになった。代行車やタクシーも来るようになった。
・小高区も解除後は高齢者や作業員が多かったが今年の春から高校生カップルを見かけるようになった。
・小高区はファミリーマートができた。浪江町には来年復興住宅が完成し、コンビニもさらに1件増え営業時間も長くなる。
・南相馬市は防波堤もでき、治安は大丈夫だが閑散としている。人数が少ないので集団登校ができない学校はあるが、歩いて登校しており、人は増えた。