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第69回 支援者のつどい【話題概要】第1部

平成29年7月26日(水)、山形市男女共同参画センターを会場に、第69回 「支援者のつどい」を開催しました。話題となった概要を広く皆様にお伝えします。
ご参加頂きました皆様、ありがとうございました。
なお、内容が多いため、【第1部】と【第2部】に分けて掲載しています。

<参加者>
子育て支援団体 1
中間支援団体 3
カウンセリング団体 1
コミュニティ支援団体 1
保養支援 1
助成団体 1
寒河江市社会福祉協議会
山形市社会福祉協議会
高畠町社会福祉協議会
山形県社会福祉協議会
山形市避難者交流支援センター
福島県避難者支援課
山形県 復興・避難者支援室
参加者数:20名(15団体)  スタッフ:4名  計24名 

■第1部 支援活動に関する情報提供、質疑応答
「自主避難を経て新庄で新生活~珈琲店開業までの道のりと想い~」
提供者:自家焙煎、珈琲の店bino(ビノ)   

・郡山市の養護学校の卒業式の日に震災に遭った。遠くでは瓦が落ちてアスファルトも10cmずれるほどの大きな揺れだった。
・近くの中学校で家族と合流して一夜を過ごした。テレビで原発が爆発する恐れがある事を聞き、家族みんなで実家の新庄市に避難し、学校が始まる4月に郡山市に戻った。週末は会津や県外の保養に行った。
・会津若松に避難する話もあったが、主人から避難をするなら県外と言われていた。最初は米沢のアパートを探したが、南陽市でアパートを見つけそこから仕事に通った。
・南陽市には2011年の10月から昨年の3月まで生活をしていた。子どもも馴染んでいて地域の交流も多く地域の人と繋がることができた。近所の人が親切にしてくれて、雪は多かったが生活はしやすかった。
・郡山市での生活は放射能を気にして子どもを注意してばかりだったが、南陽市ではアスファルトの上を普通に裸足で遊べ、思い切り子どもが遊べる環境ができよかった。
・仕事は朝早く出勤し、夜は遅い帰宅で大変だったが、放射能に対してのストレスは軽減された。
・南陽市から1年半職場まで通った。今後のことは5、6年後の子ども達の様子をみて判断しようと思って悩んでいた。
・避難当初は知り合もいなく、支援もされているかわからない状態で、取り残されていると感じ、疲れて明るく振舞えなくなった。友人からも逃げるのかと言われ、避難生活は日々が精一杯だった。
・仕事を辞めて珈琲店を開業すると決め、その間に南陽市でNPOやサークルを作ろうか避難者同士で話になっていた。南陽市役所に相談に行った際に、市の担当者から誘われて相談員になった。サークル活動も社会福祉協議会と合わせて開催出来るようになり良かった。
・つながりのない人がほとんどだったが、避難者同士だとすぐにつながれた。どこに誰が避難しているのかわからないので、つながりの1歩を作った。
・個人で避難者に情報提供もしていた。交流会に参加してもらい、情報を共有してそれぞれが今後を選択してくれればよいと思った。
・訪問では子育てをしながら仕事をしている人とはあまり会えず、強制避難と自主避難では話をしたくない人もいて難しい部分であった。
・原発や津波被害でも思いが違い、放射能の話ばかり聞くのもいやだと言う人もいた。
・避難者を福島県で全てまとめてしまう、宮城県は情報がないと言われ支援の格差は感じていた。
・避難者の悩みをよく聞いた。思いや感じ方はみんな違うので自分も固執しないようにしていた。みんなで笑っていられた時が一番嬉しかった。
・福島にいた時、アグリのコーヒーの味に感動しこの味を目指したいと思い、師匠の店に通い勉強をした。主人も新しい事業の準備をしていたが、福島では開業できないので新庄でのコーヒー店開業になった。
・2012年10月から本格的にコーヒーの修業をするようになり、月2回通い、豆を焼くトレーニングを繰り返し行った。
・新庄市の実家が会社を廃業することになり、その場所で始める事にした。
・いずれは喫茶営業もしたい。現在は豆を売ってお店の中で試飲をしている。
・資金繰りが大変だったが決めた事なのでやるしかなかった。自宅なので、子どもの都合に合わせられるが、土日の遠出への外出はできなくなった。
・新庄の町内は子どもがいなくて歓迎されたが、数年後はどうなのか不安になる。避難者登録はしており、定住するか断言はできず、将来についての整理はついていない。
・避難生活の話をしたい方や震災の話や福島の現状を聞きたい人、顔を見に来てくれる人もいる。自分も教員時代に勤務後にコーヒーを飲み落ち着いた。そんな美味しいコーヒーを飲みたい人がたくさんいればいいと思う。

<質疑応答>
Q震災の時の子どもの年齢は何歳か。
A子どもは4歳と6歳だった。「まるもり」の歌を聞くと今でも震災を思い出し嫌がる。

Q震災直後の原発事故の情報はいつ聞いたのか。
A3月13日の午後、娘とスーパーに行く途中に兄から連絡がきて、急いで自宅に引き返した。

Q当時は断水のために、水を汲みに子どもと外にいた人も多かった。郡山はどうだったか。
Aライフラインは大丈夫だったが、食べ物とガソリンの不足と、やはり子どもの事が一番心配だった。一緒に学校に通っている子どもがいたので、小学校まで毎日歩いて登校させていた。小学校では時間制限をしながら外遊びが始まり、自分の子どもには外遊びを許可していなかったため、徐々に周りの保護者との温度差を感じ始めた。

Q郡山市の小学校から転校する時の子どもの様子はどうだったか。
A夏休みは新庄市の実家で過ごした。郡山市にいた時はいろんな制限をしていたが、新庄市では普通に水遊びができ解放感がありよかった。2学期が始まる時に娘が泣きながら郡山市に帰りたくないと言った。その姿を見て自分が仕事に通えるアパートを探し始めた。娘にとっては制限がある郡山市にいるよりも転校して良かったと思う。